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NIJIの夢

NIJIの夢

041~050


NO,041 壬生忠見

041.壬生忠見

恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり
人知れずこそ 思ひそめしか

恋をしているという私の評判は、はやくも世間に立ってしまったことだ。
誰にも知られないように、秘かに思いはじめたのに。


この歌は前回(NO,40)で述べたとおり、天徳4年内裏歌合で、平兼盛の歌と争い敗れたものです。
敗れたといっても、判者でさえ優劣を決めかねた歌です。
その後も、この2つの歌の優劣はしばしば問題とされ、中世以降は忠見の歌の方が高く評価されています。
兼盛の「忍ぶれど・・・」の歌と比べると、格別な技巧も趣向もなく地味ではありますが、滑らかな調べがしみじみとした味わいを醸し出しています。
また、心のうちに秘めていた恋心が世間に知れてしまった事に戸惑う気持ちが素直に詠まれていて、実感がこもった歌であるといえます。


備考
「沙石集」には、歌合の後、忠見は負けたことに落胆して食事が喉を通らなくなってしまい、遂には病気になって死んでしまったと記されています。
これは作り話のようですが、忠見がそれだけ和歌の道に熱心であり、この歌合に歌人の人生を掛けていたのだということが伝わってくるようなエピソードです。

【壬生忠見】みぶのただみ
平安中期の歌人。(生没年共に不明)
忠岑(ただみね)の子。
三十六歌仙の1人。
自然詠にすぐれていた。
「後撰和歌集」などの勅撰集に入集。
家集に「忠見集」

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NO,042 清原元輔

042.清原元輔

契りきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 波越さじとは

二人はかたく約束しましたね。
お互いに涙で濡れた袖をいく度も絞りながら、あの末の松山を決して波が越すことはないように、二人の仲も末長く変わるまいと。


この歌は、元輔の恋の相手の女性が末の松山の恋の誓いを破った状況で詠まれています。
心変わりを直接責めるのではなく、過去の誓いを持ち出す事で、相手の不実を責めているのが巧みです。
一方で、あの誓いを思い出して、もう一度考え直して欲しいという願いも込められているようで、恋に破れた男の悲しみが伝わって来ます。


備考
「末の松山」とは、現在の宮城県多賀城市付近の海岸にある松山で、どんなに海が荒れても、波がこの松山を越す事はないと伝えられていました。
この歌は、この言い伝えを背景にして、もし貴方を差しおいて私が浮気心を持ったならば、末の松山を波が越えるでしょう。
すなわち、外の人に心を移すことは絶対にあり得ませんと誓ったものです。

【清原元輔】きよはらのもとすけ
平安中期の歌人。(908‐990)
清少納言の父。
梨壺(なしつぼ)の五人の1人で、三十六歌仙の1人でもある。
大中臣能宣とともに「後撰和歌集」の撰に関与した。
題材・用語に自由で才気に富んだ歌風。
家集に「元輔集」

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NO,043 権中納言敦忠

043.権中納言敦忠

逢ひ見ての 後の心に くらぶれば
昔は物を 思はざりけり

貴女に逢って契りを結んだ後の、この恋しく切ない心にくらべると、逢わない前の気持ちなど、物思いをしていないのと同じようなものであったよ。

この歌は、「拾遺集」では「題知らず」となっています。
拾遺抄には、「はじめて女のもとにまかりて、またの朝につかはしける」と記されているので、衣衣(後朝)の歌であることが分かります。
片想いは辛いものですが、成就すれば辛くなくなるかと言えば、そうでもないようです。
愛する人に逢って思いを遂げると、今度は僅かの時間でも離れている事に耐えられなくなる。
恋人に逢えない時間の切なさや苦しさに比べれば、片想いをしていた時は物思いをしていないのと同じだ。
そう思われるほど、「今は貴女が恋しい」と詠んでいます。
恋する者の微妙な心境を素直な言葉で読み上げています。


備考
権中納言敦忠は、右近と恋愛関係にあったと言われています。
彼の母は、はじめ時平の伯父、大納言国経の北の方でした。
在原業平の孫娘と言われ、かなりの美人だったようです。
その噂を聞いた時平が国経の屋敷を訪ねたところ、国経は喜び、もてなしているうちに酔いつぶれてしまいました。
その隙に時平は北の方を連れ去ったということです。
その時、北の方は国経の子をみごもっていて、それが敦忠であったと伝えられています。
谷崎潤一郎の小説、「少将滋幹の母」は、この北の方がモデルになっています。
敦忠は美男子で人柄も良く、和歌の道に秀でていて、琵琶の名手でもありました。
38歳で他界したときは、その死を惜しまぬ人はいなかったといいます。

【権中納言敦忠】ごんちゅうなごんあつただ
藤原敦忠のこと。(906‐943)
平安中期の歌人。
左大臣藤原時平の三男。
三十六歌仙の1人。
琵琶の名手で琵琶中納言とも呼ばれた。
歌は「後撰和歌集」「拾遺和歌集」に入集。
家集に「敦忠卿集」

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NO,044 中納言朝忠

044.中納言朝忠


逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし

もし男女が逢うということが全くないのもならば、かえって相手の冷たさや、我が身のつらさを恨んだりすることもないだろうに。

この歌は「もしも男女が逢って喜びを知る事がなければ」という仮定のもとに詠まれています。
そうであれば、相手の冷たさや、そのために思い悩む自分の辛さを恨む事がないだろうにと、恋の苦しみを嘆いています。
恋が成就するという事は男女が逢うことなので、逢ってくれない相手も自分も恨めしい。
逢う以前の段階で、恋しい人に逢うことを強く願った気持ちを詠んだものと考えられています。


備考
この歌は、昔から「まだ相手に逢わない段階で恋心を詠んだもの」とする説と、想いは遂げたものの「その後、相手が連れない事を詠んだもの」とする説の2通りの説があります。
しかし、撰者の定家は後者の説を取り、なまじ逢ってしまっただけに忘れられず、連れない相手も恨んでしまうという意味で、この歌を鑑賞(評価)したようです。
内裏歌合で「詞清げなり」と評価しているように、なめらかな調子の美しい歌です。

【中納言朝忠】ちゅうなごんあさただ
藤原朝忠のこと。(910-966)
三条右大臣定方の五男。
三十六歌仙の一人。
和漢の学に優れ、笙の名手でもありました。
彼は、大変太っていたと言われています。

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NO,045 謙徳公

045.謙徳公

あはれとも 言ふべき人は 思ほえで
身のいたづらに なりぬべきかな

可哀想だ、と言ってくれるような人は、誰も思い浮かべられないで、私はこのまま虚しく死んでしまうことだろうよ。

「拾遺集」によれば、恋人の女性が冷たくなり、逢ってくれなくなったときに詠んだ歌です。
「貴女に恋い焦がれながら、虚しく死んでしまうだろう」という内容で、恋を失った男の悲しみが伝わってきます。
謙徳公は摂政を務めたほどの人物であり、いうならば当時の政界の大物でした。
そういう身分の人の歌としては弱々しい感じがしますが、「一条摂政御集」の詞書の「負けじと思ひて(備考参照)」の記述を見ると、わが身の哀れさを訴えて相手の女性の同情を誘おうという、恋愛の駆け引きだったのかも知れません。


備考
謙徳公には「一条摂政御集」とう歌集があります。
その冒頭に、この歌が「いひかはしける程の人は、豊蔭にことならぬ女なりけど、年月を経て、返りごとをせざりければ、負けじと思ひていひける」と記されています。
つまり、「相手の女性が手紙を出しても返事をしなかったので、負けまいと思って言ってやった」という訳です。
「大鏡」によると、謙徳公は才色兼備で風流を好み、贅沢な生活を送ったということです。

【謙徳公】けんとくこう
本名は藤原伊尹。(924‐972)
平安中期の廷臣で歌人。
師輔の長男。
摂政・太政大臣。
「後撰和歌集」の撰進に参画した。
娘の懐子は冷泉天皇の女御。
歌集に「一条摂政御集」

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NO,046 曽禰好忠

046.曾禰好忠

由良の門を 渡る舟人 梶を絶え
行方も知らぬ 恋の道かな

由良の瀬戸を漕ぎ渡る舟人が、梶を失って行方も知らず漂うように、これから先どうなっていくのか分からない、頼りない私の恋の道であるよ。

先の見えない恋の心もとなさを、波間に漂う舟人に象徴させて巧みに表現しています。
「由良の門(と)」は紀伊国と丹後国の2ヶ所にありますが、新古今時代には紀伊国の歌枕を指していたようです。
家定もそのように考えていたようですが、作者が丹後国の役人をしていた事があるため、ここでは丹後の由良(京都府宮津市の由良川が若狭湾にそそぐ河口の辺り)であると思われます。
由良という地名は、揺らぐ、揺らめくといった言葉を連想させます。
この由良のイメージと、梶を失いゆらゆらと漂う舟人のイメージが、恋の将来に対する不安とマッチして、歌に深みを与えています。


私も一句。
『散りかけた 恋の花びら かき集め 愛しき人の 人生(みち)に捧げて』

備考
上の句の「由良の門を 渡る舟人 梶を絶え」は「行方も知らぬ」を導き出す序詞となっています。
この「行方も知らぬ」は、上からの続きで梶を失って流される舟の行方が知れないという意味と、下に続いて恋の道の行方が分からないという、2つの意味を持っています。
こういった技法は、和歌の世界ではよく使われます。

【曽禰好忠】そねのよしただ
10世紀後半の歌人。(生没年共に不明)
歌の才能は豊かで斬新。
頑固でひがみっぽい性格のため花壇で孤立した。
詳細不明。

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NO,047 恵慶法師

047.恵慶法師

八重葎 しげれる宿の さびしきに
人こそ見えぬ 秋は来にけり

葎(むぐら)がいく重にも生い茂っているこの寂しい宿には、人は誰一人として訪ねて来ないが、秋だけはやって来たことだなぁ。

この歌は「拾遺集」に「河原院にて、荒れたる宿に秋来たるといふ心を、人々よみ侍りける」と詞書して収められています。
葎が難波の浦から海水を運ばせ、汐焼きをして楽しんだ河原院の庭園には、葎が幾重にも生い茂っています。
また、主人の存命中は大勢の人が訪れて毎晩のように賑やかな宴が開かれていたのに、今は訪れる人もいない。
しかし、人々に忘れられた寂しい屋敷にも、季節は当時と変わらずにやって来るのです。
華やかな昔を思いながら、人の世の儚さと秋の訪れをしみじみと詠んだ歌です。


備考
「河原院」とは、No,14の作者である河原左大臣が建てた邸宅のことです。
これは奥州塩釜の景色を模した広大な庭園のある、大変豪華な屋敷でした。
しかし、河原左大臣の死後は荒れ果て、没後100年余りが過ぎ去ったこの頃は、作者の友人で河原左大臣の曾孫に当る安法法師が住み、清原元輔(NO,042の作者)、次の源重之(NO,048の作者)らの歌人が出入りする和歌のサロンのような場所になっていました。

【恵慶法師】えぎょうほうし
10世紀後半の歌人。(生没年共に不明)
播磨国の国分寺の僧。
平兼盛らと交流があった。
詳細不明。

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NO,048 源重之

048.源重之

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
くだけて物を 思ふころかな

風が激しいので、岩に打ちあたる波が砕けるように、あの人は連れなくて、私だけが心も千々に砕けて、物思いをするこの頃であることよ。

辛い片想いに悩む気持ちを視覚的な効果を用いて詠んだ歌です。
作者の恋は、報われる望みがなかったのでしょうか。
岩と波の関係には、絶望的な恋が暗示されているようにも感じられます。
砕けてもなお打ち寄せる波は、虚しい恋の努力を続ける姿を想像させ、いっそう哀れを誘います。


備考
「風をいたみ 岩打つ波の」までは、下の句の「くだけて」を導き出すための序詞です。
激しい風に吹かれて、波が岩に打ち当って砕けるという情景を視覚的にイメージさせる効果を持っています。
なお、この歌は冷泉(れいぜい)天皇が東宮であった頃に奉った百首歌の中の一首です。
この百首歌は現存する最古の作品のひとつです。

【源重之】みなもとのしげゆき
平安中期の歌人。(?‐1000)
兼信の子で清和天皇の曾孫。
相模権守。(さがみのごんのかみ)
三十六歌仙の1人。
歌は九州から東国・陸奥にわたる旅中の作が多く、自然なよみぶりの中に人生への哀愁がこもる。
「拾遺和歌集」などの勅撰集に入集。
家集に「重之集」

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NO,049 大忠臣能宣朝臣

049.大中臣能宣朝臣

みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え
昼は消えつつ 物をこそ思へ

宮中の御門を守る衛士のたく篝火が、夜は赤々と燃え、昼は消えているように、私も夜は恋心が燃え上がり、昼は身も消え入るばかりになって物思いに沈んでいる。

作者は、夜は恋人との逢瀬で燃え上がる恋心に身を焦がし、昼は昼で相手のことが頭から離れず、物思いに沈む我が身を、夜は赤々と燃え、昼には灰を残して消えている宮中の篝火に例えています。
夜と昼、赤と黒(灰)を対応させ、鮮やかに恋心の起伏を描き出しています。


備考
既に何回か述べたように、平安時代の結婚や恋愛は、男性が女性のもとへ通うという形でした。
男性は夜に女性の家を訪れ、朝になると別れて自分の家に帰りました。
ですから、男女が一緒に過ごせるのは夜の間だけで、日中は別々に過ごしていたのです。
これを【通い婚】と言います。

【大忠臣能宣朝臣】おおなかとみのよしのぶあそん
平安中期の歌人。(921‐991)
神祇大副頼基の子。
「後撰和歌集」の撰者の1人。
形式を重視する保守的な作風。
梨壺の五人の1人で三十六歌仙の1人。
家集に「大中臣能宣朝臣集」

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NO,050 藤原義孝

050.藤原義孝

君がため 惜しからざりし 命さえ
長くもがなと 思ひけるかな

貴女に逢うためなら死んでも惜しくないと思っていた命までもが、こうして貴女に逢うことが出来た今では、いつまでも長くあって欲しいと思うようになったことだ。

「後拾遺集」の詞書には、「女のもとより帰りて遣はしけり」と記されているので、女性のもとから帰ってきて、次の朝に贈った歌であることが窺える。
恋が実る前と成就した後の自分の命に対する考え方の違いを詠む事で、恋い焦がれていた女性との逢瀬が実現して、いっそう募る恋心を見事に表現しています。
特別な技巧を使わずに、素直な言葉で詠み下している。
それが返って、作者の真心とみずみずしい恋の喜びを強く伝えていると言えるでしょう。


備考
藤原義孝について【大鏡】では、次のように伝えられています。
義孝は、幼い頃から信仰心が厚く、法華経を読みながら亡くなりました。
死後、人々の夢に現れて歌を詠み、極楽に生まれたことを知らせたという。

【藤原義孝】ふじはらのよしたか
一条摂政伊尹(これただ)の三男。(954-974)
容姿が美しく、和歌の才能も豊かで、将来を期待されていた。
しかし、天延2年(974年)、その年に流行った痘瘡(天然痘)のため、21歳の若さで死亡した。

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051~060に進みます。


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